東日本大震災の被験者の声についてもっとしりたいあなたへ
目次
どうも、ようすけです。
ぼくのプロフィールにも書きましたが、ぼくは2011年に起こった東日本大震災を経験しました。
ご存知のとおり、多くの被災者(死者:15,894人 、行方不明者:2,562人、 2016年2月10日現在、 警視庁発表)を出した震災で、マスコミでもSNSでも、多くの方が発信しています。
この記事では、ぼくが東日本大震災を直接経験して学んだことを紹介します。
なお、震災発生1ヶ月にぼくが現地で撮影した写真を載せています。
人によっては気分が悪くなる恐れがありますので、目次の1を飛ばして2から読むか、この記事から離れることを勧めます。
震災発生一ヶ月後の現場(閲覧注意)
当時、ぼくは福島県相馬市の海岸から5km内陸にあるアパートに住んでいました。
ここから下の写真は、震災発生一ヶ月後に自宅から自転車で現場へ行き、撮影したものです。
津波の凄まじさを肌で感じました。
震災後、リアルに困ったこと
ここからは、震災後に現地で住む上で、リアルに困ったことを書きます。
まずライフラインですね。
電気
以外にも、電気は震災後も通っていました。
相馬市は東北電力の管轄です。なので原子力発電所や最寄りの火力発電所が水没しましたが、電気は無事でした。
(でもこの事実は、福島県が土地提供やメルトダウンのリスクを負ってるのに、作った電気は都会のために消費されることを示してて、やるせなさを感じます…)
テレビや電子レンジはずっと使える状態のため、情報は随時得ることができてました。
電子レンジで冷凍食品を解凍して食事を済ませていました。
ガス、水道
これらは1週間ほど止まってました。これは本当に困りました。
風呂に入れないのは耐えれましたが、トイレが流せないのが痛かったです。
近くの用水路から泥水を汲んで、トイレを流してました。悪臭が酷かったです。
ガスと水が出たときは、本当に嬉しかったですね。
食料
水は近くの公園で配給されていましたが、ぼくはスーパーで1.5 ℓ ペットボトルのお茶が買えたので、それで水分を補給してました。
食料は前述のとおり、冷凍食品を食べていました。物流が麻痺しているので、スーパーには生鮮食品は売っていません。
それにしても、当時の冷凍食品はまずかった…
2020年現在の冷凍食品は、このとき食べたものと比べると、天と地の差を感じるほどおいしいです。
テクノロジーの進化はスゴイですね。
その他
あとは何と言ってもガソリンが手に入らないのが大変でした。
電車は津波で水没したので、移動手段としての車は重宝しました。(建物の倒壊や地面の隆起で、通れない道路も多々ありましたが…)
その分、ガソリンの需要が急増して、とにかく買えない。
5ℓ手に入れるのに、2時間待ちは当たり前の状態でした。
地方が震災に見舞われたとき、ガソリンの確保は最優先にしておくべきです。
まあ電気自動車が普及したら、また状況は変わっているかもしれませんが。
震災で学んだこと
震災で学んだ大きな教訓。それは、
生きていることは奇跡
ということです。
ぼくは生涯2度、うつを経験しました。ぼくが生きていることは無価値だと思うこともありました。
でも、この震災経験は、生と死が隣り合わせだということを気付かされます。
地震発生当時、ぼくは前職の工場内にある事務所にいました。
地震発生中は、机の下に身を潜めながら、天井のエアコンが落ちてくるかどうかを見つめていました。
建物内の内ガラスが、次々に割れていく音が聞こえました。
地震が収まったあと、建物内は工場内の機械から漏れた洗浄液などが一面に散らばり、アンモニア臭で満たされていました。
建物から出て待機していた際、遠くからジェットエンジンのような音が聞こえてました。
当時は何の音かさっぱり分かりませんでしたが、今振り返ると津波の音だと思います。
なおその日の晩は、相馬市の海岸付近の旅館で送別会を予定していました。地震の発生時間があと数時間遅れていたら、ぼくはこの世にいなかったかもしれません。
本当に地震は何の前触れもなく起こりました。
今この記事を読んでいる瞬間にも、死が襲ってくるかもしれません。
だからぼくは、ブログでぼくが生きた証を残したい。SNSで発信し、生きているうちに1人でも多く価値提供をしたい。
ご縁があってこの記事を読んでくださった方に、「生きていることの奇跡」について考えるきっかけが与えられたら嬉しいです。
終わりに:花見山公園の景色
最後に震災現場に足を運んだのと同時期に気分転換で行った、福島市花見山公園で撮影した景色を紹介します。
凄まじい震災の後も、色とりどりの花が咲いていました。植物の生命力、たくましさを感じますね。